1400年前の中国では、女性の体と感性が男性とは異なるので、薬や治療法に特別な配慮がなされていました。984(永観2)年に丹波康頼(たんばやすより 912年~995年5月21日 平安時代の医家・医博士。俳優・丹波哲郎のご先祖でもあります)は、『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上しました。これは、唐の時代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したもので現存する日本最古の医学書で、その中の21巻に「婦人部」と名付けて現代の産婦人科にあたる内容を記しています。
この書が秀逸なのは、現代医学との接点があることです。現代病の首位をしめる乳房や子宮のポリープや腫瘍に関する記述と治療法まで記載されているのです。ちなみに、当時「癌」という病名は存在せず、「岩」の名称が登場するのはそのはるか先の江戸時代になります。
こんな一文があるので紹介します。
またいう、女性は嗜欲が男性より多いので、男性の倍も病気に罹りやすい。その上、慈しみぶかく、恋の愛憎や嫉妬、憂いや深い恨みと怒りにこだわって、堅くしっかりした気持ちを支えていることができなくなる。
このため病の根ざすところは深く、治療しても治りにくい。だから母たちに伝えるのである。これを学ばなければならない、と。
『医心方』から、平安時代には既に月経が現代医学に近づき、さらに精神論までが説かれているということを史実から学ぶことができます。
また地域により、月経中の女性は生活空間から一定期間距離を置き、村境の小屋などで過ごしており、小屋をツキヤ(月夜)やタヤ(他屋*)とよばれ、女性たちのくつろぎや情報交換、夜には男性との交流の場となっていたそうです。
*女性が月経または出産の際に不浄であるとして、炊事の火を別にしてこもった小屋。別屋。他火小屋(たびごや)。
月経を宗教的意味付けにより、一般社会から遠ざけられていた文化が、近代西欧医学が移入により明治時代に一変します。産業化が勃興し、都市部に中間生活者層が増加し、医学者の指摘に影響を受けた文部省が、月経時の女学生に過保護な政策をとり始めます。体操・掃除・遠足・ミシン・オルガンの使用などは、月経時の女学生の禁止事項とされたそうです。
・・・明治~大正~昭和にかけてはまた後日!
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